会員の皆様におかれましては、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます.
さて,このたび,一般社団法人日本人間工学会第 59 回大会を宮城県仙台市にて開催する運びとなりました。仙台市は,本学会が1964年12月に設立された翌1965年5月に,最初の全国大会(第4回大会;本川弘一大会長)が開催された都市で,1980年の第21回大会(丸山欣哉大会長),1995年の第36回大会(猪岡光大会長)に続いて4度目の開催となります。東北支部は会員数数十人の小さな支部であることもあって,前回大会から20年以上の月日が流れてしまいました。この間,北村正晴・元支部長,本多薫・前支部長のもと,支部の大幅な活性化がはかられ,ようやく開催できる基盤が整いました。
この地は,2011年3月11日の東日本大震災の被災地のど真ん中でもあります。7年前のあの日,それまで当たり前に存在してきたもの/ことの多くが失われました。
私自身,福島第一原子力発電所と第二原子力発電所のちょうど中間あたりにある富岡町の町役場で被災しました。130Kmほど離れた仙台市の自宅までヒッチハイクをしてたどり着いたのは翌12日の午前3時半頃でした。国道はそこかしこで津波の被害を受けて通行できず,普段なら3時間かからない距離を9時間以上かかりました。仙台の街はすべての灯りが消え,満天の星が夜空を覆い,道路はうっすら雪化粧をしている,幻想的な美しさでした。道中,第一発電所のある双葉町の防災無線が被ばくの恐れがあるからと屋内退避を呼びかけていたと記憶しています。人びとは気にする様子もなく屋外を歩いていましたが,翌日からそこは警戒区域に指定され,数年の間,人の立入が厳しく制限されてしまいました。
福島県の沿岸部の一部では原子力発電所事故による放射能の影響で数十年にわたって人が住めないであろうエリアもあるなど,多大な影響が残り続けます。岩手県から宮城県にかけての三陸沿岸部では,山を削って土砂を運び土地の大規模なかさ上げ工事が行われてます。沿岸数百キロにわたって生活を大きく変えねばならない現実に直面していて,それらの影響は沿岸地域にとどまらず,県域を越えて東北地方全域に及んでいます。
このような経験をした地方にあって,東北支部としてどのようなテーマを掲げて大会を開催するか,大会実行委員会ではかなり議論を重ねました。大震災によって大きな変化を強いられた地方であることに加え,世界の国々が経験したことのない急激で継続的な人口減少を初めて経験する日本の中でも減少率が圧倒的に高い地方であることを考え,人間工学という学問を社会の変化に対応できるように位置づける大会としようと決意しました。テーマは「社会的レジリエンスに資する人間工学」です。大会実行委員会はこのテーマに沿っていくつかの大会企画を考えますが,会員の皆様におかれましても,可能な範囲でご自身のご研究をこのテーマに照らしてお考えいただければ幸いです。
特別講演には,東北大学災害科学国際研究所の初代所長・平川新氏(現宮城学院女子大学学長)と二代目所長・今村文彦氏をお迎えします。この研究所は,歴史学(日本近世史)が専門の平川氏が,災害の多い地域に資する研究をするためには文系学問と理系学問とを融合する研究体制が必要だと考え,津波工学の専門家である今村氏らに声をかけ,東北大学の中に研究拠点の整備したことに始まります。東日本大震災の4年前のことでした。研究所設立からわずか7年目ではありますが,災害科学をリードする存在として世界から高く評価されています。
東日本大震災からのレジリエンスに災害科学という学問がどのようにかかわったかというお話を伺うことが一つの目的です。しかしそれ以上に,Human Factorsとしての人間工学が,文系学問に位置づけられることが多い応用心理学を出自としてもつことを考えると,文理の融合によって災害科学という新たな学問を確立させたこの研究所の歩みはきっと参考になるだろうと考えました。文系出身の初代所長と,理系出身の二代目所長の対話を通して,レジリエンスに資する人間工学のあり方を探りたいと思います。
津波で甚大な被害を受けたエリアはほぼ旧仙台藩の領地に一致します。この地は度重なる津波被害をもたらすだけでなく,独特の景観と豊かな海の幸をはぐくみ,肥沃な平野は米どころでもあります。伊達者のはぐくんだ文化もそこかしこに感じていただけると思います。仙台-東京駅間はわずか1時間半。全国主要都市とをつなぐ仙台空港と仙台駅の間は最短17分と,交通の便も良い土地柄です。
映画やドラマのロケにも使われた美しいキャンパスが自慢の宮城学院女子大学で,スタッフが悲鳴を上げるほどの多数の皆さまのご参加を,心よりお待ち申し上げます。
一般社団法人日本人間工学会 第 59 回大会
大会長 大橋 智樹